W・B・イエイツ
「私は、それまで不幸な人たちに同情しなさいと、さんざん教えられ、病気になってしまうほどだった。ところが、まったくモリスのロマンスを読んだおかげで、あふれんばかりの橅の木の枝や、はちきれそうな麦の穂を心のうちに持っていて、何もかも幸福の種にしてしまうような人間の存在に気づき共感できるようになったのだ」
「咳をしても一人」という句を詠んだ尾崎放哉の生き様がとても好きなので、気が向いたらつなビィにまとめたい。私も自由律俳句を詠んでみたいが、たぶん技巧面を意識しすぎて句を継げないだろう。
尾崎放哉と種田山頭火の師である荻原井泉水の荻原家は、もともと高田の人間で井泉水の祖父の代に家庭の事情で出奔したという上越との薄い繋がりがある。最近何かと全てを上越と絡めて考える傾向にあるが、様々な事象が結びつく瞬間が面白くて仕方ないので、意外と勉強が好きなのかもしれない
巧拙を意識しすぎた結果、完璧主義を加速させていくことになり、整うまでは見せられないという思考に陥るが、そんなにうまくなるときは来ない。そこで負けず嫌いを発揮して努力を重ねたら成功するのに、「どうせできないからやらない」「私みたいな人間はやっても無駄なんだ」と始める前から限界を規定して取り組まない。できっこないのだ。そんな人間には
私を救ってくれる都合のいい“彼くん”なんて存在しないので、この異常な生活から脱するために、一人で泥臭く戦っていくしかないのだ。何もしなくて困るのは自分なので、言い訳をしても咳をしても一人だという意識を強く持たねばならない。こうした誓いを日々立てているが、意志薄弱過ぎる私は簡単に自分を裏切ってしまう。世間体なんて捨て去って、妥協を覚えて楽な方へと流される。そうやって25年生きてきて、社会性の獲得を放棄してきたが、この歳でそんな精神構造で大丈夫なのだろうか。
昨晩以降何も口にしていないのはマズいと思って冷蔵庫を開けると、食材管理がなされていないので賞味期限切れのものしか入っていなかった。スーパーに向かう気力も残っておらず、ありあわせのものを頬張ってみたけど気分が悪くなってしまい、残りはビールで流し込んだ。もっと気持ち悪くなった。勿体無いという気持ちで捨てられずにいた食材も、体調には変えられないなと思って全て破棄した。この調子で断捨離と整理整頓を進めていきたい
ゴミ屋敷に住んでいると、足の踏み場がないので動くのが億劫になってしまい、ベッドに縛り付けられたかのように寝続けていたら一日が終わっていた。あんなことやこんなことをしようと夢を膨らませていたGWとは一体何だったのか。
日々の営みというか、暮らしに対しての意識や行動も雑になってしまい、衛生環境の悪い部屋で換気もせずに生活していると、本当に廃人になってしまうような気がしてツイッターに出没しているこの頃。投稿したしょうもないやり取りでさえも定期的に削除してしまうため、私には何も残らない虚しい現実が背後からとどめを刺してくる
省略して切り取るけど、小出楢重の随筆に登場する「その白い砂地に強い日光が照り付け、松の影が地に落ちると、ただ世界はきらきらとまぶしく光るだけである。」というオリーブ林と松林に関する色彩の違いについて言及した一文の、「ただ世界はきらきらとまぶしく光るだけである」というフレーズがとてつもなく好きで、ことあるごとに引用していきたい。文脈が異なる話題のなかにすら唐突に捻じ込みたいくらい。“ただ”という前置きが素っ気なく感じられ、何も特別なことなんてなくて、“そうであること”が普通だという。だから結びが“だけである”となるのかな。それって素敵な発見じゃないかな。
里見勝蔵
「僕は時々残念がったり、自ら訝って見ることは、山に上って偉大な展望に接しても、これを懐かしく思うことは出来ないのだ。僕には庭の小さな築山でたりるのだ。空に聳える立派な楡の木を見ても、僕には庭のコマシャクレたザクロの木のほうが好きなのだ。洋々たる海や大河よりも庭の池の方が面白い。野の花よりも庭に咲く花の方が美しいのだ」
里見勝蔵
「僕は好きなものを描くのだ。僕の知っているものを描くのだ。僕は僕の好きな風景を思うままに描くのだ。これゆえに僕の思う心が見る人の心に映ずるのでないか。僕は僕の好きな女を描くのだ。モデルを描くのでない。愛人の姿を描くのだ。否、愛人そのものではない。僕の愛撫そのものを描くのである。美しい果物そのものを描くのでない。果物のうつくしさを描くのである」