雑記

頻繁にツイ消しするため、忘備録として更新します。内容は重複することがあります。(加筆修正/削除あり)基本的に自分語りしかしません。信憑性などは担保していないので、裏取りは個人に委ねます。
頻繁にツイ消しするため、忘備録として更新します。内容は重複することがあります。(加筆修正/削除あり)基本的に自分語りしかしません。信憑性などは担保していないので、裏取りは個人に委ねます。

尾竹越堂(おたけ えつどう) 1868-1931

中蒲原郡に生まれる。本名熊太郎。書家を志して1884年頃上京したが挫折。東京、富山などで修業を続ける。1911(明治44)年、第5回文展に「韓信」を出品。1914(大正3)年、第8回文展に「さつき頃」、第9回文展に「湖」、第10回文展に「漁樵問答」を出品するなど、文展を舞台に活躍

飯田春行(いいだ はるゆき) 1933-

東頸城郡牧村に生まれる。1956(昭和31)年新潟大学教育学部芸能科卒業。1963(昭和38)年自由美術家協会展に初出品、以後出品を続ける。1967(昭和42)年会員に推挙される。新潟県現代美術家集団Gun結成に参加する。1977(昭和52年)豊栄市葛塚中学校に勤務。1981(昭和56)年、今日のイメージ'81展(亀谷美術館、三重県立美術館)に招待出品。1984(昭和59)年、教職を辞す。

阿部展也(あべ のぶや) 1913-1971

五泉市に生まれる。本名芳文。独学で画家を志す。1932(昭和7)年第2回独立展に初入選。1937(昭和12)年、瀧口修造と詩画集「妖精の距離」を刊行。1939(昭和14)年、福沢一郎らと共に美術文化協会の創立に参加り1941(昭和16)年から陸軍報道班員としてフィリピンに滞在、敗戦の翌年復員。1949(昭和24)年日本美術家連盟設立の際常任理事となり、国内で広く活躍すると共に、サンパウロ・ビエンナーレ、インド・トリエンナーレなどにも出品。1962(昭和37)年よりローマで制作のかたわらロマネスク美術を研究中同地で没
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吉田五十八「だれもが一高から東京帝大のコースにあこがれていた時代だった。」
稲村ヶ岳で妥協しろよという話なんですよね。今はそんな大それた野望など持ち合わせていませんが、昔は性転換したい気持ちがずっと強く、忍耐強さの欠片もないのに、大峯に対する憧れだけを抱き続けていました。野望なんて言ってるうちは、果たせそうもありませんが…
性転換してしたいことは、奈良県の山上ヶ岳へ行き、女人結界門を反復横跳びすることです。たぶんそれをすると痛い目に遭いますが、とにかく修験者でもないのに、大峯奥駈道に憧れ、入峯したいと夢見ています。ただ、本当にそれを実現させるためには、反復横跳びなんて洒落は実行できません。
「美術家として大成するために笈を負うて上京したなどという話は、もやは昔話もいいとこであろう。現代では、人間らしく生きるには、無味乾燥な〈中央〉とやらから逃避する傾向が強いとさえいえる。」あたりとか、饒舌過ぎる
新潟の美術の図録を読んでいるが、「本県は、これまで述べてきたことからでもわかるように、美術の上でも圧倒的な保守王国といえる。その保守的な美術土壌は、なにが描いてあるかがわかるリアリズム以外の様式を容易に受け入れない。」という一文が胸に突き刺さった
新潟出身の南画家

長井雲坪:天保4年、越後沼垂の医師長井甚六の長男として生まれる。地元の絵師、真壁雪晁に画技を学ぶ。一時期、医師、良庵の門弟となり、両親没後は家業を継ぐべく、医学修行のために長崎へ赴いたが、画道への思いが断ち切れず、ついに同地の南画家、日高鉄翁、さらに木下逸雲に師事した。35歳のとき、オランダ人宣教師フルベッキに従って清国の上海に渡り、江南地方を遊歴し、同地の徐雨亭、王克三、陸応祥らと交わって南宗画の研鑽に励み、

大倉雨村
今後は越佐画壇に気をかけて、広く新潟県全土の美術に触れる必要があるなと感じました。ただ何でも手広くというわけにもいかないので、まずは絵画部門からいくのが無難でいいのかもしれません。それとも分野の垣根を越えて、時代も関係なく無秩序に取り上げていくべきなんですかね。あとで点と線が繋がって結びつけば、理解が深まっていいとする観点で捉えるのか。それとも時代順に丁寧に追っていくべきなのかとか。それを考える時間があれば、とにかく一点でも多くの作家を知り、作品を見ることかなぁって。どうしても網羅的であろうとして、漏れを気にしてしまうのですが、完璧なんて無理なんだからと割り切ってしまうのがいいんでしょうね。それで後から補完的に付け足せばいいという考えでいたいです