雑記

頻繁にツイ消しするため、忘備録として更新します。内容は重複することがあります。(加筆修正/削除あり)基本的に自分語りしかしません。信憑性などは担保していないので、裏取りは個人に委ねます。
頻繁にツイ消しするため、忘備録として更新します。内容は重複することがあります。(加筆修正/削除あり)基本的に自分語りしかしません。信憑性などは担保していないので、裏取りは個人に委ねます。

越後瞽女日記

(p94〜p99)

瞽女は、生涯夫をもってはいけなかった。女だけの社会でこの掟がもっとも厳しかった。男との関係がわかると厳罰をうける。江戸のころは片腕を切り落とされることもあった。明治からは、年に二回座元の家で「総会」がもたれ、出世への年数を、二年、三年と延ばされる「年落し」の刑を行なった。
旅から帰り、腹が大きくなったのに気付き家を出て人知れず産みおとし、里にあずける娘もいた。男のために瞽女屋敷を担保に入れ、金をみついでだまされた娘もいた。生れつき「不埒」をやめられぬ娘もいた。いずれにしても、「年落し」の刑は手痛く、多くの瞽女が組織を去った。そうした瞽女を「瞽女くずれ」とか「離れ瞽女」とかよび、末路はさびしいものであった。人びとの記憶の中にあるうらぶれた瞽女のイメージは、「離れ瞽女」の姿からきたものであろう。組織をはなれて生きるために、按摩になったり、一人で門付けの旅をしたり、あるいは嫁に入って幸せになる者もいたが、多くは道端に乞食の様な姿をさらした。みずからすすんで去る者もいた。それは美人で芸達者な目あきの娘に多く、芸をよりどころに一人立ちできると思って出る。瞽女の稼ぎはすべて親方が病人も、幼い娘も、芸のできない娘もへだてなく平等に分配するため、稼ぐ娘には不満だったのだろう。「おればかり働いてつまらねえ」と出ても、やはり行く末は、茶屋女や遊女になって途方にくれねばならなかった。こうしていくつもの悲劇が生まれた。

name
email
url
comment