雑記

頻繁にツイ消しするため、忘備録として更新します。内容は重複することがあります。(加筆修正/削除あり)基本的に自分語りしかしません。信憑性などは担保していないので、裏取りは個人に委ねます。
頻繁にツイ消しするため、忘備録として更新します。内容は重複することがあります。(加筆修正/削除あり)基本的に自分語りしかしません。信憑性などは担保していないので、裏取りは個人に委ねます。

揚北衆

鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部に割拠した国人豪族のこと。揚北とは阿賀野川(揚河)北岸地域のことであり、阿賀北衆ともいう。

出自に応じて、小泉庄(現在の村上市一帯)を所領とした秩父党、奥山庄(現在の胎内市一帯)を所領とした三浦党、加地庄(現在の新発田市一帯)を所領とした佐々木党、白河庄(現在の阿賀野市一帯)を所領とした大見党に分類される。阿賀北地域では、鎌倉時代に武蔵の秩父氏、相模の三浦氏、近江の佐々木氏、伊豆の大見氏らの豪族が荘園の地頭として越後に入国し、それぞれの所領を治めていた。時代がたつにつれて、彼らの末裔(まつえい)は地域支配を強化し、各領地の地名を苗字とする国人に成長していき、揚北衆と呼ばれるようになった。具体的に秩父氏は本庄氏(宗家)、色部氏、鮎川氏、三浦氏は中条氏(宗家)、黒川氏、佐々木氏は加地氏(宗家)、新発田氏、竹俣氏、五十公野氏、大見氏は安田氏(宗家)、水原氏、下条氏に分かれた。垂水氏は相模の河村氏が国衙領であった荒川保(現在の関川村一帯)の地頭に任命されて越後に入国し、室町時代に垂水氏を称するようになったとされ、大川氏については詳細は不明だが、土豪出身であると考えられる。(Wikipedia調べ)

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